2008年タイフェスティバル大阪で来日し、堂々のトリを努めた音楽大道芸人Tik Shiro

彼の音楽人生は数奇な巡り合わせ、アップ&ダウンの人生でもある。
2005年12月、大御所アサニーワサンのMore Musicから発表されたアルバム・ボーラーンマンBORAN MAN(Ancient Man)は、実に10年というブランクを挟んだ彼の最新譜であり、そして、そのアルバムが彼にもたらした人気と賞賛はたいへんなものであった。
もはやタイPOPSバラードのスタンダードとなった名曲ラック・マイ・ヨーム・プリーアンペーン(Love won't change/愛は変わろうともしない)は、タイのSeason Awards に輝き、Fat Awardsではミュージシャンによって選出されるFavorite Artist賞を獲得した。Tikはこれだけの人気が出たことが予想外であったと告白するとともに、自分の存在がファンに忘れられていなかったことにたいへん感謝している。
このボーラーンマンでの成功は彼に人生2度目の名声をもたらしただけでなく、彼の初期の活動にも注目を集めさせた。若者たちは彼の古い楽曲を知らなかったが、昔の彼を知るファンが古いカセットを引っ張りだして、若い世代に聞かせるということも起こり、それが彼の80年代のダンスナンバーや、ジョークに溢れた曲をまた広めることになった。今の世に流れている曲よりもTikの古い楽曲がより繊細で心を惹き付けるメロディーであることにも注目が集まった。

すべて自分で習得し、複数の楽器を演奏できるマルチプレイヤーであるTik。彼は今時の、作られたポップスターではない。彼は曲作りすべてに関わり、その曲の振り付けさえ自分で考えるのだ。


<イサーンでの少年時代>
TikことSirisak Nantasenは1960年ナコンラチャシーマー県生まれ。
父は公務員、母は普通の主婦だったが、彼の家にはステレオ機器が無く、音楽はもっぱらトランジスタラジオからで、シャワーを浴びるときでさえ聞いていた。扱いが簡単だったし、音楽のビートを覚えるには合っていた。ドラムは手作り。ポットのふたをハイハットに、段ボールをスネア替わりにして彼はドラムを覚えて行った。
その頃小遣いは1日1バーツだったTikは自分の兄弟と一緒に300バーツの安物アコースティックギターを購入し、近所の公民館で仲間を集めて練習した。

最初の分岐点はTikの職業訓練校時代。
両親の希望に反し、仲間とCelebrationというバンドを結成し、隣のコーンケーンのパブで演奏をはじめた。ジャズやファンクナンバーを演奏し、Tikはドラムを担当するだけでなく、歌も歌った。
「最初はコーンケーンにバイクで行こうとしたんだけどいくらなんでもキツい。昼間は学校に行かなければならなかったからね。学校が終わったらバスに乗ってコーンケーンに行き、PLAYしていた。でも演奏が遅くまでになると今度は学校へ戻る定期バスには乗れなくて、そんなときは新聞配送のトラックに乗せてもらったりしたよ」
バンドメンバーは学校を辞めてしまったが、Tikは卒業まで残った。それが両親の願いだった。中退スレスレの状態が2年間続いたあと、Tikはコーンケーンに引っ越し、バンド活動に専念した。ようやく音楽に集中できる環境を得たTikはバンドを可能な限りベストな状況にしたいと思い、お金はすべて新しい楽器の購入にあて、そのための借金もした。


<Tik Shiroの誕生、三四郎からの"四郎">
1983年、Tikたちはパタヤに活動の場を移す決心をした。コーンケーンでは十分仕事ができたし、彼らは場を移すことを必要とした。
社交界の名士でありホテルの経営者のKamala Sukosol Clappは、Tikたちを雇い、彼女のホテル(the Siam Bayshore)で演奏させることにした。バンドCelebrationはそこで技術を磨き、パタヤで評判を高めて行った。

このパタヤの時代に今のシローというニックネームが付けられた。
「その当時ヨシって呼ばれてる日本人が司会をしてたんだけど、そこでボクも同じように日本人の名前をつけようと思いついた。当時TVシリーズでSUNSHIRO YUDO SAI DUM (Sunshiro, the black belt JUDO/姿三四郎?柔道一直線?)というのがあって、それでシローっていう響きがイイと思い、もともとのTikっていうニックネームに加えたのさ」
こうしてTik Shiroが誕生した。

その1年後、彼は全国音楽コンテストに出場し、ドラマーの最高賞を受賞。彼のバンドは、バンド・カテゴリーで1位になった。
Tikは新しいスネアを買うためにドンという歌手から50,000のバーツを借り、それをコンクールの演奏に使ったが、さらにコンクールで買ったばかりのスネアを無くしてしまった。たった一度だけしか使用しなかったのに、ドンへの借金だけが残ることになった。


<パタヤからバンコク、そしてダヌポンBANDのドラマーに>
このコンクールの後、より大きな機会を求めてバンコクへ移って来たTikたち。彼のドラムの技術は、他の音楽家たちに広く知れ渡るようになる。
タイPOP MUSICのパイオニアでGMMグラミー創始者、トーことレワット(RAEWAT "Ter "Bhudinand)は、ドラマーとしてのTikに興味を示したが、バンドは彼を引き止めた。
その後、音楽界の大物ジェーことダヌポン(Danupol"Jae"Kaewkan)が自分のバンドに加わってくれるようにTikに依頼したが、Tikは一旦はそれを断った。彼は大きな機会を失った。
結局Tikはバンドを辞め、ダヌポンのバンドで巡業し、一方プログラマーとしてGMM のレワットと一緒にスタジオでさらに働いた。いくらかのお金を得るとTikはすぐにローランド・シークエンサーMC-500を買った。35,000のバーツだった。
「それからはインスタントヌードル以外は食べられなかったよ(笑)」
ダヌポンのツアーで彼からの要求が多くなり、Tikはスタジオ仕事を止めなければならなかった。
ツアーの間、彼は作曲を始めた。
1年後にダヌポンは、PLOYという、新バンドを結成。Tikはすぐさまメンバーになった。1987年にPLOYが解散するまで、Tikはそのメンバーとして3年を過ごし、3枚のアルバム*に参加した。
*Plong Sa(Let Go), Took Jai Nid Kid (Like Ya), and Plueng Nam Ta (Waste of tears)


<ついにソロデビュー、成功と挫折>
1988年、ジェッタリン(Jetaing "J" Wattanasin)やタッチ(Touch Na Takuathung)がダンスの帝王として人気を博する中、Tikはデビューした。彼のデビューアルバム(TIK SHIRO CHO CHAIYO)からはManut Kangkow(Batman)、CHAIYO YO、Ork Ma Tenといったヒット曲が出て、彼は全国区の人気を得る。
「Jやタッチはクールだったよね。ボクは勝ち目が無かった。でもそれでokayだった。アルバムは実際良い出来だったし」

Tikはそんななか、曲の振り付けや衣装のデザインにも深く興味を示すようになった。彼の高い声やボーカルスタイルはマイケル・ジャクソンからインスパイアされたものだったが、それをみて多くの嘲笑が起こった。
「自分の声が変わっていることは自覚していたよ。とても薄く、カン高い声。でもそれはボクのアドバンテージだと思ったんだ。他に誰も無い声だと。ただそれらが少し奇妙すぎたかもしれない」

1989年の2ndアルバムTEM NIEW(All Out)は成功だった。翌年発表のYIN DEE TON RUB(Welcome)も。しかし、巡業ツアーをし、曲を書き、レコーディングを同時にこなしていくのは困難を極めた。
TVショーの司会やドラマ出演などのオファーもあったが、Tikはそれらの多くを拒否した。しかし彼はVIMAN MAPHROA (ココナツの楽園)という作品でMekala Awardの最優秀助演賞に選ばれた。
しかし、彼の4thアルバムSOR TOR PORの売り上げは芳しくなく、それにより次作への発売にしばらく時間を要することになる。

5枚目のアルバム BER 5 MAHACHON(Number 5, Public limited)の発売は1995年になったが、この売り上げや反応はさらに厳しい結果となる。
「これは本当に失敗だった。ボクの音楽は、その時点で、国民のニーズに対応されていない。ボクは敗北を受け入れる必要があった」
TikはTVやその他のショービジネスに注目した。彼の役割は殆どがコミカルなものやサポートの役回りだった。彼はコメディー番組のレギュラーを得たが目立つことはできなかった。
尊敬されるミュージシャンから、人気のソロアーティストへ。そして注目されることの無い、いちテレビタレントへ。Tikはツキから見放されて行く自分を感じていた。
「もちろんボクはそれを感じていたよ。それでもまだ、ショービジネスの世界で仕事ができるのは名誉だと。それを哀れんで、めそめそしてることなんか出来なかったよ。少なくともボクの周りの人たちは、ボクの顔を見ることを望んでいる、それは光栄なことだと。それが自然のルールじゃないかい。あるときは登って、ある時は沈んで。それが人生の真実さ。だから人気が無くなってもボクは心底落ち込む、ということは無かった」


<アサニーに呼び出され…Tik Shiro復活へ>
Tikは新譜を出せない10年の間も、音楽との関わりは続けていた。
彼はバード・トンチャイのための音楽制作にも関わり、グラミーゴールドでのスタジオワークも行い、そこで新しい曲を作曲し続けた。
「音楽の仕事を止めることはなかったよ。自室にスタジオを持って、やりたいときにやりたいだけ仕事をするようにしたかったからね」

彼の音楽界への本格復帰はMore Musicのボスであり、シニアロッカーでもあるアサニー・チョーティクンに「どんな音をストックしているの?」と質問されたことから始まった。
「これはチャンスだと思ったね。すぐに自分の楽曲を持って、アサニーのスタジオに行ったよ。それで我々は夜明けまでボクの曲を聞いた。そしてアサニーは言ったんだ。『これは新しいアルバムをリリースする必要があるね』と」
Tikは押さえ切れない程の胸の高鳴りを感じたが、その後はたいへんだった。
「既に多くの新人が出て居たしね。何度も曲を作り直し、見直した。ボクも大きな変化をためらったところもある。どの曲をシングルにすべきか、何度変更したことか」
間もなく彼には成功が訪れることになる。
新作ボーラーンマンはバンコク郊外から評判が高まり、ゆっくりと中央へ浸透して行った。風変わりだが率直な詩と今風なメロディのラック・マイ・ヨーム・プリーアンペーンは国民のハートをしっかり掴んだ。
こうしてTik Shiroは音楽シーンに見事にカムバックした。<終>


TIK SHIRO関連記事:
ボーラーンマンCDレビュー
7Cコンサート(Zeal、Fahrenheitらと競演)
2008年大阪タイフェスティバル・レポート
Tik Shiro♪Rak-mai-yaum-plien-plang(You Tube)


<あとがき>
この記述は2006年4月のBangkok PostのTik Shiro特集記事を元に、再構成したものです。
平凡な英語読解力ゆえ確信はありませんが、それでも「誤訳」だけは無い様、最大限心がけました。
本物の大道芸人、本物のアーティスト、ミュージシャンであるティックシローの最も詳細な日本語記述、日本語テキストになればと仕上げ切りました。
正直かなりの時間を要してしまい、また何故このタイミングになってしまったかと、自分でも悔やまれますが、自分の英語力を直視するきっかけにもなりましたし、今後もこのような形で自分が何かできることがあれば頑張ってみたいと考えています。
この作業をやり切れたのは何よりも、自分自身がTik Shiroの人間性、人生に強く惹かれたからであり、その一心があったからこそ、と想っています。

「それでもまだ、ショービジネスの世界で仕事ができるのは名誉だと。それを哀れんで、めそめそしてることなんか出来なかったよ。少なくともボクの周りの人たちは、ボクの顔を見ることを望んでいる、それは光栄なことだと。それが自然のルールじゃないかい。あるときは登って、ある時は沈んで。それが人生の真実さ。だから人気が無くなってもボクは心底落ち込む、ということは無かった」

10年間の売れない時代のことをこう語ったTik Shiro、人生の甘さも辛さも知った男の言葉、沁みて来るものがあります。(匠武士)